ツール・ド・フランス 7連覇の男
 「ランス・アームストロングの物語」
2005.11.10

癌を克服し、ツール・ド・フランス7連覇を成し遂げた男、ランス・アームストロングって(34才)とは 一体、どんな男なんだろうか?彼の伝記を少しづつ紹介しよう。

第八話(強いランスがよみがえった。)(2005.11.10)

2000年のツール・ド・フランスでは、ランスは1997年と1998年に優勝したウルリッチとパンターニを目標にした。二人とも1999年のレースには出なかったのだ。

メデイアは書いた。ランスは彼らの挑戦を退けることが出来るだろうか?ランスは答えた。もちろんだとも!しかし、そのためには十分、準備しなくちゃナ! 彼はスペインとスイスで幾つかのレースに出た後、4月のパリのレースで2位に入った。6月のアルプスのレースでは3位になった。

しかしツール・ド・フランスを目前に控えて、アメリカチームは恐ろしい事故に襲われた。ピレネー山中で練習中にランスの自転車がパンクし、70kmのスピードで谷に落ち、石垣に衝突したのだ。彼はラッキーだった。怪我はほんのかすり傷程度で済んだ。

こうして2000年の本番がやってきた。

ランスは上々のスタートを切った。イギリスのミラー選手が2秒差、ドイツのウルリッチが12秒差で続いた。今回アメリカチームはリラックスするため黄色のジャージ(前年優勝者だけが着るのを許される)をつけなかった。チームメイトはランスを守るために常に彼の近くにつけていた。

レースの神話は常にアルプスの山越えで作られるのだが、今年は寒さと雨のためにエリー選手がトップに立ち、ランスに6分もの差をつけた。

しかし、8日後にアルプスから出てきたときには2位に5分37秒の差をつけていた。そして最終の第19ステージではライバルのウルリッチに25秒の差をつけて、彼は再びツール・ド・フランスに勝った。最終的に2位に6分もの差をつけていた。

第七話(7連覇のはじまり)(2005.10.24)

そして運命の1999年がやって来た。伝統のツール・ド・フランスへの参加がランスとチーム(USPS)の第一目標となった。ツール・ド・フランスに過去3度も優勝経験のあるグレッグ・ルモンさえ、ランスとチームの優勝は至難の業だと言った。

ランスは7月のレースに向けてレースを選びながら、ゆっくり、そして慎重にトレーニングを行った。レースのタイミングに合わせてゆっくり体調を仕上げて行く方法は、その後の成功の鍵となった。春の終わりには一つのレースに勝ち、次のレースでトップ10に入り、アムステルダムのゴールドレースでは苦しみながら2位になった。(この勝負はタイヤ一つの差だった。)

アメリカに一旦帰国した彼は。強力なチームメイト二人を得てチーム(トリオ)を結成した。

ツール・ド・フランスのレースが始まる前の試乗で彼は悠々とトップのタイムを記録した。そして前回優勝者のみに許される「黄色のジャージ」を身に着けていよいよレースに臨んだ。チームは常に集団のトップを走った。この事は、後で起こった集団スリップ事故から彼らを救うことになった。このアクシデントで実に半分近くのレーサが競技をを出来なくなってしまったのだ。

第八区間でランスは区間優勝を果たし、その後ずっとパリまでチームは先頭を明け渡すことは無かった。彼は第19区間でも7分以上の差をつけて圧倒的な勝利を収めた。

ランスは2位に6分以上の差をつけてゴールインしツール・ド・フランスの記録的な勝利を収めた。この勝利はランスのみならず「癌」と闘う人たちのためのものだった。こうやって1999年は終わったが、年の暮れ息子のルカが生まれた。

第六話(婚約そしてプロへの復帰)(2005.10.16)

1998年5月、彼は癌を克服したことを発表した。そして地元オーステインでのレースで優勝を飾り、 プロの世界に復帰した。癌を告知されてから2年後の話である。 この年は自転車競技への復帰も さることながら、もう一つの話題があった。それはクリステインと婚約した事だった。

ロマンスは1997年のカリフォルニア、サンタ・バーバラでの優勝パーテイから始まった。 ランスはオーステインでのレースでプロの競技に復帰したものの、人々はヨーロッパのレベルにま で復帰できるかどうか疑問に思っていた。 彼が癌に罹病したことを聞いてヨーロッパのチー ムが契約を破棄して来た。しかし、その数ヵ月後、彼はアメリカの郵便サービス会社 (公社)と契約したことを誇らしげに発表した。

そして改めて自転車乗りの頂点を目指す決意をした。 しかし、そうするには一つの障害を乗り越 えなければならなかった。 1998年内にかれはヨーロッパのサーキットに復帰した。最初のレース は悪天候に見舞われ1993年の最初のレースのように無残な結果に終わった。 しかし彼はオー ステインに帰り、コーチやチームメイトと会った。そして言った。「俺は続けたいんだ!」。

皆は黙って頷いた。 1998年にはルクセンブルク、ドイツ、スペインの競技に参加し、 オランダでの世界チャンピオン大会では総合4位にランクされた。この大会は非常な悪天 候で152人参加中、完走したのはたった66人だった。 彼には満足できる結果では なかったが、帰国後、レースで得たお金30万ドルをアームストロング癌基金に寄付した。

第五話(癌の克服そしてアームストロング癌基金設立へ)(2005.10.13)

癌は彼に肉体的、精神的な傷跡を残した。しかし彼は前向きに考えた。これは天が授けてくれた予期せぬ「贈り物」である。癌になった事は生きていく上で良い試練となる。そしてこの経験を多くのがん患者と共有しよう、と考えた。

この試練を通して生活の優先度を変えねばならない事を知った。物質的な幸せが脆いことを知り、健康に恵まれ、家族や友人に囲まれて生きることがどんなに大切かも、身にしみて分かった。癌は彼にとって特別な「目覚まし時計」だったのだ。

彼は睾丸や他の部位の癌に苦しむ人々の代弁者になりたいと考え、ついに「ランス.アームストロング癌基金」を設立した。癌を告知されてからわずか数ヵ月後のことであった。
泌尿器癌の早期発見の重要性を研究、促進するための国際的な非営利団体である。今や癌対策で世界的をリードする団体の一つとなった。

第四話(悲劇が待っていた、癌が見つかった)(2005.10.5)

アメリカ自転車競技界の「ゴールデンボーイ」と持てはやされた彼だったが、1996年10月、大きな悲劇が彼を襲った。 健康診断の結果、肺にまで広がった進行性の「睾丸の癌」に侵されておる事が分かったのだ。 10月9日、衝撃的なニュースが世界中を駆け巡った。

彼は癌が見つかった次の週、二つの手術を受けた。一つは悪性の原発性の癌を取り除くため、 もう一つは脳に転移した癌を取り除くためであった。 生き残るチャンスは50%と言われた。しかし彼は果敢に「化学療法」を受けることにした。

この時期、この種の「化学薬品の混合物」が癌に効くかどうかは分からなかった。しかしこの方法だけが肺活量を減らさないで 癌を退治する道だった。 彼はかつて経験したことがないほど打ちのめされたが、家族、友人が彼を支えた。

驚くべきことに「化学療法」が効き始めた。まもなくレースに出ることが出来るような気にさえなって来た。 そして癌が見つかってから5ヵ月後、不屈の彼は、ランニング、トレーニングを再開した。

第三話(オリンピックへの参加そして世界チャンピオンへ)(2005.8.18)

こうしてランスは押しも押されもしないプロの自転車競技者となった。彼は年のうち8ヶ月を自転車競技の盛んなヨーロッパで過ごし、多くのファンを喜ばせ、いかにメデイアへ対応するかをを学んだ。

シーズン・オフにはテキサス州オースチンで家族、友人達と寛いだ生活を送った。 翌年も彼は孤独なヨーロッパでの競技を通じて腕を磨き、3年前、ビリでゴールインしたサン・セバスチャンの大会にも優勝し屈辱を果たした。

そして1995年、アメリカの若者向けに「Lance Armstrong Junior Olympic Race Series」を設立した。

1996年も怒涛のように勝ち続け遂に世界チャンピオンになった。そしてアトランタ・オリンピックではアメリカをチーム優勝へと導いた。更に成功物語は続く。彼はフランスのチームと2年契約を結び、オースチンに豪華な家を建てた。この家を愛する母親の名前から「リンダの城」と名づけた。時にランス、25歳だった。

しかし、最悪の事態が彼を待っていたのだ!

第二話(高校生からプロへ)(2005.8.1)

ランスは1989年(18才)モスクワでのジュニア・ワールド・チャンピオン大会に参加した。アマチュアの大会は自分の実力を試す絶好の機会だった。テキサスの田舎育ちで恥ずかしがり屋の彼には自転車の世界を知る良い機会でもあった。1991年までに彼は全米アマチュア・チャンピオンになり、タイトルをバルセロナ・オリンピックまで保持した。

オリンピックの後、彼のプロとしての最初のレースは1992年(21才)のサン・セバスチャンでのクラシックレースであった。プロのレースはアマチュアとは全く違っていた。アマチュア時代のタイトルは大して努力せずに取れた。しかし、このプロのレースで彼は土砂降りの冷たい雨の中、トップから27分も離されてビリでゴールインした。しかし、彼はくじけなかった。

1993年(22才)には10のタイトルを取った。その中には全米プロ・チャンピオン、最初のツール・ド・フランスの勝利も含まれた。そして彼は最年少の世界チャンピオンとなった。

第一話(生い立ち、少年時代)(2005.7.27)

ランス・アームストロングは1971年、テキサス州プラノで生まれた。(現在34歳)彼のスポーツ好きは母親リンダ(彼は母子家庭に育った)と地元で多くのスポーツに接する事によってはぐくまれた。

13歳の時にはトライアスロンに優勝、16歳の時にはプロのトライアスロンの選手になった。水泳もランニングも自転車ほど楽しくはなかった。彼は土曜日にはいつもオクラホマ州境まで遠乗りをした。母親はいつも彼をピックアップするために州境までドライブをしなけらばならなかった。彼は生まれながらの自転車乗りだったのだ。

彼は高校3年生としては珍しく、オリンピック選手強化チームの一員に選ばれてコロラド・スプリングスでトレーニングを受けた。しかしそのため高校卒業が危うくなったが、辛うじて卒業を果たした。